はじめに
反出生主義と聞いて、どのような人物が浮かぶだろうか。恐らく日本では、ベネター、森岡正博、小島和男あたりが浮かぶのではないだろうか。もう少し詳しい人だと、KEI、シオラン、ショーペンハウアーといった名前が浮かぶかもしれないし、フランス語が堪能な方ならジローという人物を知っているかもしれない。
筆者はかつて、ベネター、森岡正博、シオランは扱ったことがあるものの、小島和男については触れて来なかった。そこでここでは小島和男の『反出生主義入門』を読んだ上で、この記事を書くことにした。
反出生主義の様々な定義
反出生主義にはすべての反出生主義者、反出生主義研究者が納得する定義はない。おわり、と書かれている記事もあるかもしれない。
もちろん先に名前を挙げた森岡正博を中心に、いくつかのカテゴライズは始まっている。しかしウィキペディアやAIのように反出生主義=○○であると言い切ってしまうのは少し危険だ。
反出生主義のカテゴライズとして、広義の反出生主義とか、狭義の反出生主義とか、ギリシア型・インド型・21世紀型、誕生否定と出産否定などが思いつく限りある。そのすべてをここで解説することはできないものの、拙論の中では少しずつ触れたので興味があれば無料入門の1つとしてみてほしい。
ベネターは反出生主義の中でも21世紀型の出産否定で、「誕生害悪論」と呼ばれる理論を展開している。そのベネターの著書を翻訳し、日本に反出生主義を紹介した一人である小島和男は、ベネターに基本的には賛成しつつも「反‐出生奨励主義」という主張をしている。反出生主義と反‐出生奨励主義に共通しているのは、出産否定という点である。
では誕生否定と出産否定は何が違うのだろうか。これも個々人の解釈によって多少意味は変わってくるが、誕生否定は主に自分が生まれて来たことを後悔している状態と言える。例えば『ミュウツーの逆襲』のミュウツーは「なぜ私を作った!」と人間に憎しみを向けるわけだが、これは誕生否定的な側面がある。「生まれて来ないほうが良かった」という嘆きも誕生否定的ニュアンスが強い。
これに対して出産否定とは、「人類または有感生物は全員、子どもを産まない方がよい」とするものである。そしてなぜ子どもを産みだしてはいけないのかというと、それは反出生主義が「子どもを作る=悪」と考えているからだ。
なぜ子どもを作ることは悪なのだろうか。一緒に考えてみてほしい。
なぜ子どもを作ってはいけないの?――快苦の非対称性
この問題を考える上で、ベネターの理屈を避けては通れない。いわゆる快苦(あるいは善悪)の非対称性の問題だ。ここで図表を出して、快苦は非対称だとベネターは言っているのね、とわかった気になるのは簡単だ。中には図を出さない反出生主義解説は学生のレポート以下と言う方もいる。しかしここではあえて図を出さない。図を使うまでもなく、ベネターの見解は抽出可能だからだ。
ベネターの『生まれてこないほうが良かった』は、ベネターの見解、予想される反論、それへの再反論といった部分も多い。そのためか読者は混乱することがある。ゆえにここではベネターが自分の論理がいかに正しいか論証してみせた部分は割愛し、ベネターの主張のキモだけを書くことにする。卒論修論博論でベネターを扱いたいという方は原著Better Never to Have Beenを熟読してほしい。
非対称性の問題に戻ろう。まず苦痛から考えてみる。苦痛はない方がほとんどの人にとってうれしいだろう。つまり「苦痛が存在しない=善」と言える。そして「苦痛が存在する=悪」だ。では苦痛を感じる人がこの世に一人もいなければどうだろうか。それは善ではないか。こう考えることができるとしよう。
これに対して快楽はどうか。多くの人にとって、快楽があることはうれしいだろうし、快楽がないことはつまらないだろう。すると「快楽が存在しない=悪」、「快楽が存在する=善」となる。これでは快と苦は対照的であるという結論に至ってしまう。しかし結論を先取りしていうと「快楽を感じる人が一人もいない状態は悪ではないのだ」。
つまり今苦しんでいる人を見て涙を流す人はいても、誰もいない無人島を見て、ここに人間がいたら楽しく過ごしただろうにと泣く人はいないのだ(本当にいないのか筆者には疑問だが)。
さて快楽が存在するためには、「すでに存在している人」を想定しなければならない。ゆえにまだ生まれていない未来の人間について考えてみてほしい。つまり、今存在していない人だ。未来の人間は存在しないことで、つまり生まれて来ないことで、苦痛を回避できる。苦痛はない方が善なのだから回避すべきだ。快楽はあってもなくても悪くはない。
これが「なぜ子どもを作ってはいけないのか?」という問いへの答えになるのか。この記事を読んでいるあなたは今まで一度も苦痛を感じたことがないだろうか。注射をちくりとされる程度の苦痛も感じたことがないだろうか。恐らく注射くらいの苦「痛」はあったと思う。ベネターに言わせれば注射をされるくらいなら生まれて来ないほうが良いのである。なぜなら苦痛は悪だからだ。
ここで読者諸氏は思うかもしれない。
「いやいや、注射くらい平気ですよ。人生には楽しい事がいっぱいあるんです」
しかし想定されているのは今存在しない人だ。楽しいことを感じる主体はいない。確かに快楽があるのは良い事だろう。しかし快楽を感る人がいないことは悪い事ではない。というのがベネターの主張だと筆者は考えている。
整理するとこうだ。Aさんが存在する場合、苦痛があることは悪い事で快楽があることは良い事だ。Aさんが存在しない場合、苦痛がないからハッピー、快楽もなくなるが何も感じないからアンハッピーではない。
こう考えたときに苦痛を0にするには、Aさんが最初からいない方がよいとなるのである。Aさんが存在すれば苦痛を必ず感じてしまう。注射かもしれない、事故かもしれない、挫折かもしれない。仮にそれらを被らなかった「最高の人生」があったとしても「死」によってはく奪される。ならば最初からなにも持たない方がいいのである。
ゆえに子どもを産むということは、苦痛を与える行為なのである。
おわりに
なるべく端的に解説したつもりだが、反出生主義の神髄が少しでも伝わっただろうか。反出生主義は優しいと言われる。ベネターも人類を愛しているという。優しいからこそ、人間は他の人間が苦痛を感じる可能性を減らす義務があると考えるわけだ。
「他人を傷つけてはいけない」のである。我が子であっても別人格だ。迷惑をかけて良い理由にはならない。
しかし我々は、他人に迷惑をかけてはいけないのだろうか。利己的に子どもを産みだすことは絶対悪なのだろうか。ぜひ読者諸氏にも考えてもらいたい。
おすすめ入門書籍
※本記事はアフィリエイト収益を得ています。収益は運営、原稿料の支払いに充てられます。
投稿者プロフィール

- 生命倫理相談所運営者 京都府立医科大学研修員 生命倫理学と宗教学が専門 好きな研究者は、冲永隆子、森岡正博、小松美彦、立岩真也など
SNS :X